主体

僕は、色々と主体性に欠ける人間だ。基本的に人を誘ったりすることはないし、自分から話題を広げたりすることが大の苦手だ。

 

ただ、人に誘ってもらえたらここぞとばかりのフッ軽を見せていくら遅い時間であろうと喜んで向かうし、人と話すことは普通に好きだし、バイトで長時間働いた後に「ごめん、もう少し残ってくれない?」と言われたら疲れた体を動かすことをいとわない。

 

今の時代(いやいつでもか)、自分から行動することはとても大切なことだし、少なからず人を巻き込んで何かすることが必要な場面もある。そういう場面では僕はすごくたどたどしくなる。急に声が小さくなるし、どもりがちになる。口が思うように動かなくなる。

 

20年生きてきたなかで、人間はそう簡単に変わることができないということを学び、自分の主体性に欠ける部分と上手く付き合いながら生きていかないといけないことはもうわかっているので諦めはついているのだが、なぜ自分が主体性に欠ける人間なのかをずっと考えてきた。そして、何となく答えが出た。

 

 

主な原因は2つ。まず1つ目は転校だ。僕の親は転勤族で、小学生という多感な時期に2回転校をしてきた。

 

小学生1、2年生の時の僕は割と主体的な人間だった。ベラベラ喋るタイプの人間だったし、どちらかといえばクラスの中でも人気者なタイプだったと思う。人生最初にして最高のモテ期もこの時期だった。

 

そんな中、1度目の転校を経験した。そして転校して1年目の僕は主体性を存分に発揮した。1年目の4月に学級委員長に立候補し(実際なったはず)、学芸会の劇では主役に立候補した。だが、どうやらこの時の僕はどこかズレていたようで、僕の話術(笑)に惹き付けられる人は誰もいなかったし、空気の読めないタイプだった僕はどこか浮いていて、クラスの雰囲気に上手く馴染めなかった。たぶん一歩間違えたらいじめられていた(笑)。

 

その時僕は初めて「引く」ことを学んだ。少し引いたら僕はなんとか上手くやっていくことができた。何やかんやそこでの3年間はとても楽しかったし、日々はいい思い出として僕の中に残っている。転校する時、僕もクラスメイトも大号泣だった。

 

2度目の転校先では僕は同じ過ちを繰り返すことなく、最初からほどよく引き、空気を読みながら普通に馴染んでいくことができた。

 

そんな中、たまたま読んだZ会の教材で自分の経験が上手く言語化された。それが「共通感覚」という言葉だ。1回目の転校先では僕はそこでの共通感覚に馴染むことに苦戦したが2回目はまずそこでの共通感覚を見つけることに専念し、馴染んでいくことができるようになったのだとわかった。子どもながらにとても気持ち良かった。

 

だが、同時に僕の主体性は失われた。気付けば人を誘って遊ぶことはなくなっていたし、実際自分の家に人を招くことはほとんどなかった。自分しか観ていないであろうテレビ番組の話をすることもなくなったし、自分の中の目立ちたがりを抑えて児童会の役員に立候補することをグッとこらえたし、集合写真で真ん中に写ることもなくなった。

 

そしてこれが自分の中で常態化していき、自分の中の主体性が徐々に削がれていったのだと思う。

 

2つ目の原因が、僕の趣味嗜好だ。僕の趣味は音楽やお笑いの鑑賞にスポーツ観戦、最近でいえばアイドル鑑賞やラジオを聴くことだ。そしてゲームやスポーツを「する」ことも、物を「作る」ことも絵を「描く」ことも、全部苦手だったし好きではなかった。

 

僕の好きなことは他人がしていることを見たり聞いたりすることで、そこに主体性はない。主体的に何かすることをそもそも「楽しい」と感じることが少ない人間なのだから、主体性のある人間になるはずがない。

 

 

というわけだ。なんかまとまりやオチがない文になってしまったが、こういうわけで僕は主体性に欠ける人間になったのだ。こういう自分であることで楽しめることや得をしていることももちろんあるし、決して全てが嫌いなわけではないが、なんとなく気持ち悪くなる時もある。

 

もう少し話を広げてみたいところだが、書くのがめんどくさくなってきたのでここら辺にしておく。まあせいぜい頑張って生きますわ。